医学と工学の結合を目的に、わずか12名で発足。
創業当初の唯一の収入源は、トリオ電気研究所から引き継いだ「トリオ補聴器」の製造販売であった。
代表取締役社長は松崎陽、代表取締役専務は荻野義夫。1949年に制定された「身体障害者福祉法」の本格的な発動に伴い活況を呈してきた補聴器の販売を収入源としつつ、創業の理想であった医用電子機器の開発に取り組んだ。
社章には「燈台の光が航海する人への指針や心の安らぎとなるように、われわれは病める人のための光とも、てだてともなろう」という、「生命を照らす光」の願いがこめられている。
当時の脳波装置はほとんどが輸入品で、安定した動作の確保と交流雑音障害をさけるために電池を電源としていた。そのため記録の途中で電池がなくなり記録が途切れてしまったり、大切な現象を取り逃がしてしまったりすることがあった。また電池の保守の問題もあった。そこで、交流電源の使用、雑音障害の低減、操作性の改良などを重点に開発に取り組んだ結果、1951年12月末に世界初の全交流直記式脳波装置の開発に成功した。
1号機は国立下総療養所(現:独立行政法人国立病院機構下総精神医療センター)に納入した。改良型の2号機ME-2Dは慶応大学医学部、武蔵野病院(現:財団法人精神医学研究所附属東京武蔵野病院)に納入された。
慶応大学医学部・植村研究室と協力し、電気眼底(脳内)血圧計MOB-1を世界で初めて開発した。
高血圧症、脳動脈硬化症などの診断あるいは予後の判定、薬効の判定、脳内出血の危険の予知などは、眼底(脳内)血圧の測定が欠かせない。全身血圧と眼底血圧は必ずしも平行しない。それまでの測定は眼球を加圧して得た加圧値と眼内圧との関係式で算出し、熟練した眼科医でなければ難しく、また測定者によって測定値が異なってしまっていた。この装置の開発により、一般の眼科医・内科医にとって眼底血圧の測定を容易にした。この装置は日本光電の特許第1号として出願され。重要発明に選定された。また、12月には特許庁より奨励金を受けた。
簡易聴力計 MAW-1 "ホワイトノイズオージオメータ"を世界で初めて開発した。
難聴者の聴力測定に不可欠なものが聴力計(オージオメータ)である。一言でいえば高低種々な周波数の音を、強弱自由に発生可能な電気音響発生装置である。この簡易聴力計は慶応大学医学部・耳鼻科・大和田健次郎博士の研究と指導により、高低各種の純音を均等に含む混和音(白色雑音・ホワイトノイズ)を被検者に聴かせることにより短時間で総合的な聴力の測定ができるようになった。当時の診断用聴力計の約半額という低価格で販売され広く全国に普及した。
電子管記録式心電計 MC-1C "カージトロン"は着想から商品化への難しさを示唆した貴重な製品であった。
神戸工業(株)(現:富士通)に試作を依頼した偏平ブラウン管を使用し、世界で初めて開発した。しかし、この電子管記録式は発想、動作原理としては画期的であったが、実用化にはまだ技術的に問題があり、最終的には市場から姿を消すことになった。この方式は後年、“ファイバープレート方式ブラウン管”として実用化され超音波による心エコー図などのリアルタイム記録用として広く普及した。
日本初の多用途監視記録装置 RM-150を開発。この装置は後にロングセラーとなる。
多用途監視記録装置とは今日の生体情報モニタの基本となる様々なバイタルサイン(脳波や心電図、血圧、呼吸などの身体の状態を知るための信号)を記録できる装置として後にポリグラフと呼ばれる装置の基本形であった。
銘柄名「光電工」。医用電子機器専門メーカとしては上場第1号であった。
創業4年目からは利益を計上できるようになったが、資金需要の大半を借入金に仰いでいる状況では、企業として健全な成長をめざすには限界があった。準備期間を経て、東京証券取引所第2部に上場。株式を公開したことにより、資金調達が円滑になり、同時に企業としての信用度は高まった。
昭和30年代に入ってからの生産の急上昇から、すでに本社工場の能力では限界にきており、新しく本格的な生産工場の建設が必須と考えられていた。いくつかの候補地の中から、群馬県富岡市に決定した新工場は、1962年4月、まず補聴器生産で操業を開始した。その1ヵ月後、採算の明確化や分社経営の実をあげるなどの目的から、株式会社光電工業富岡製作所として独立した。
生物学における電子工学、機械工学などの方法、および工学における医学、生物学的知見の応用に関する研究の発展、知識の交流および社会における事業の振興をはかることを目的とし、医学・生物学と理工学との中間領域に関係する研究者の協力の場として設立された。
日本ME学会(現:日本生体医学工学会)はME(Medical Electronics)の発展を目的とする同学会に賛同する学者・企業人約500名が設立時の会員である。当社の荻野義夫は学会設立に向けての準備段階から参画し、1962年2月、医学会、工業会および産業界の権威や有識者を集めて結成された設立準備委員会の委員30名の中に名を連ねた。その功績から発足にあたって荻野義夫は理事に任命された。
日本で初めて医用テレメータ PT-120/220(アナログFM-FM方式三菱電機製)を医用として初めて販売を行った。
医用テレメータは、患者さんのバイタルサインを送信機から電波で飛ばしてナースステーション等の離れた場所でみたり、送信機を使って患者さんを装置から解放するために使用する医療機器として、今日も医療の現場で活躍している。
直流式心室細動除去装置、心拍同期装置、直流式心房心室細動除去装置を開発した。これはAED(自動体外式除細動器)の原点である。
現在、普及しているAEDはこの装置から進歩してきた医療機器であり、致命的な心室細動を電気的に除去する装置は、医療の発展や患者さんのQOL向上に今日でも貢献している。
日本初の重症患者監視装置 ICU-80を東北大学に納入した。
同装置は従来のベッドサイドモニタ、ナースコーダの技術をシステム化したもので、日本光電にとって最初のシステム製品。監視制御デスクをナースステーションにおき、8人までの患者の脳波、心電図、血圧、心拍数、呼吸数、体温の集中管理ができ、脳波、心電図を除き打点記録器で8人同時の記録が可能であった。また、患者ごとにベッドサイドに監視ユニットがおかれた。
翌10月開催のモスクワでの初の単独見本市が開催されるのを機に製作されたPR映画「病魔に挑戦する」は、16mmカラー20分。病院などでの日本光電製品の活躍ぶりを通じて、MEの重要性とME企業の将来性、ME業界における日本光電の位置づけを語る内容で、ロケは本社、工場のほか、東京女子医大の手術室などで行われた。ロシア語に続き日本語版、英語版が作られ、展示会のたびに上映。MEの重要性を広めるのに大いに貢献した。
"パルスオキシメトリー"の原理は、色素希釈法による心拍出量計を開発中だった日本光電の青柳卓雄によって発明された。パルスオキシメータとは指先または耳たぶに光を当て、透過する光量の脈動成分は動脈血流に由来することに着目し、動脈血中の酸素の濃度(SpO_{2};酸素飽和度)を連続的に測定する装置である。
この原理を用いたイヤオキシメータ OLV-5100は、1975年に製品化された。本機は着想としてはまさに世界に誇るべき独創的かつ優れたものであったが、性能や使い勝手の面では改善の必要があり、需要の伸びもないまま、諸事情により開発作業は中断。
1980年代前半、米国では麻酔中の患者の死亡事故が問題化したことで、血中酸素飽和度の測定装置としてパルスオキシメータが注目を浴び、各社が競って発売、急速に普及した。この動きは1980年代後半に国内にも広がり、日本光電もOLV-5100のノウハウを活かして1988年4月、米国製品と比肩する新製品を再び市場に送った。原理が日本で発明され、米国で実用化された数少ない例である。
英国の病院向けの権威ある専門誌"British Journal of Hospital Medicine"は、世界の一流心電計メーカ9社のポータブル心電計の比較試験結果を報告、ECG-1201、2201に最高点をつけた。
ノッティンガム大学医学部ハンプトン博士は次のように解説している。「英国市場における世界9社のポータブル心電計について、ある総合病院で性能比較試験が1週間にわたって行われ、うち2社を除く7社の最終結果が出た。それによると、日本光電のECG-1201、2201が最高点であった。また、価格面においても、ECG-2201が320ポンド、ECG-1201が265ポンドと、性能面の優秀さに比して魅力的である。」その後、このシリーズは世界各国で1万台も売れ、超ロングセラー機器になった。
へき地、過疎地の医療問題解決への方向の一つを実証。
関係者や報道陣が見守る中、那覇市の琉球大学内に設けられたセンターに、八重山郡島石垣市から心電図が電話回線で送られ、自動解析プログラムで処理された。
実験の成功は、「心電図伝送解析システム」を使うことによって、離島においても少なくとも心電図だけは遠く本島や病院のある島まで行かなくても検査が受けられる途を開き、へき地、過疎地の医療問題解決への方向の一つを実証することとなった。
WEP-6000シリーズは、ICU(集中治療室)・CCU(心疾患治療室)の生体情報モニタとして、世界初のテレメータ方式の採用は、ケーブルから解放され、患者さんおよび医療スタッフの負荷軽減に大きく寄与した。
乾電池式で世界一ロングライフのPFB(ポジションフィードバック)方式1ch心電計 ECG-5201を開発
心電計のポータブル化に伴い、乾電池式でのロングライフ世界一は心電図検査をより身近なものにしたのと同時に、当時からエコにも目を向けた開発を行っていたのである。
世界市場での一層のシェア拡大を図るため、米国トーランスに販売会社を設立した。
1976年11月、マイアミで開かれた第49回AHA(American Heart Association)の年次大会に、日本光電は心電計、希釈式心拍出量計装置、ICU装置などを出展し、注目を集めた。AHAは心臓血管病の分野で、世界で最も大きく権威のある組織。その大会における好評は、日本光電の医用電子機器が世界的に高い評価を得た証であった。以後、米国の主な学会展示には関連の機器を出展、また多くの係員を派遣し、積極的にPR活動を展開した。これら一連の活動は米国市場でのシェア拡大が世界市場でのそれにつながることを企図したものであった。自社ブランドの強力かつ積極的な販売とアフターケア網の展開が、米国での拡販にとって不可欠と考え日本光電アメリカ(株)を設立した。
日本で初めてスペースシャトルによる宇宙実験に参加する際に、NASDA(宇宙開発事業団)から、使用する機器の調査・研究・開発業務を委託され、1980年にはSS(スペースシャトル)プロジェクトチームを発足、「シャトル搭載実験機器のフィージビリティスタディ」をすすめつつ、1983年にはスペースシャトルに実際に搭載するライフサイエンス実験装置(赤外線テレメータ、電極、呼吸用アンプ)の試作を開始した。
1986年3月、日本光電で行われた搭載装置の設計審査にあたり、日本人初のスペースシャトル搭乗科学技術者(PS; Payload Specialist)の毛利衛、向井千秋、土井隆雄の3氏が厳しい仕様にもとづく開発の状況を見学にきた。
同工場の完成により、品質、性能、価格のいずれの面からも、優れた製品をタイミングよく他社に先駆けて市場に供給できる体制は、一段と強化され「顧客の満足を第一に」と当社が掲げる"IQC"(Integrated Quality Control)の精神が具現化されたのである。
当時、医用機器市場は毎年30%近い成長率で伸びつづけ、既存メーカに加えて他産業分野からの市場参入も相次ぎ、競争はますます熾烈になっていた。国内シェアを高め、海外においても市場の拡大を図り、売上500億円、輸出比率50%という目標を達成するために、技術・開発部門、販売部門の要求に迅速的確に対応する機能を備え、かつ高度の生産性をもって近代的「一貫生産工場」体制の確立が求められており、その第一陣がこの鶴ヶ島工場の新設であった。
創業から30年、念願の東証一部上場をはたした。
1982年1月4日、日本光電の株式は東京証券取引所第1部の上場銘柄に指定された。当日の株価(額面500円)は7,330円であった。また、これで6年前に掲げた経営計画「0、1、2、3計画」(借金ゼロ、1部上場、2割配当、賞与年3回)をすべて達成した。また同年10月の改正商法施行で株式の額面金額に関する制約がなくなるのを受けて、株式の流通性の改善を目的に500円額面株式1株を50円額面株式10株に分割することを決定した。日本光電の株式分割は、改正商法下で初の株式分割(額面変更)として株式市場で注目を浴びた。
電磁血流計 MFV-2100は当時、心臓の手術として脚光を浴びていたACバイパス手術時の血流を測る装置として重宝され、日本ME学会の新技術開発賞を受賞した。
電磁血流計 MFV-2100は血流をプローブで挟み、磁界の変化によって血流がどの程度のものかを測定する装置として開発された。その技術はバイパス手術を行った際、バイパスした血管にきちんと目標値である血流が流れているかという指標として手術の必須アイテムとなった。
分娩監視装置 OMF-7201 "パルトコーダ"を世界で初めてオールテレメータ化した。分娩監視装置の測定項目は陣痛曲線と胎児心拍。
テレメータ(無線)化技術は日本光電の得意とするところだったため、周産期(妊娠・出産・その後)医療でも、ケーブルからのわずらわしさを解き、妊婦の方々のQOLの向上に貢献した。
呼吸モニタ OMR-7101は患者さんの呼吸情報を総合モニタリングする医療機器として世界で初めて開発した。
翌1986年に、呼吸モニタ OMR-7101は日本ME学会の新技術開発賞を受賞し、呼吸管理を総合モニタリングすることへの重要性を改めて提示した。しかし、呼吸管理モニタは単体器としてではなく、生体情報モニタとして統合されていった。
心電図電話伝送解析の一環としてNTTと共同で救急車からの心電図伝送公開実験を実施した。
沖縄の離島の医療対策として日本で初めてミニコンピュータを使用した心電図電話伝送解析の公開実験に成功して以来取り組んできた同システムだが、その一環として、救急車からの心電図伝送も手がけ、1986年に千葉県松戸市でNTTと共同で伝送公開実験を実施した。ついで、1987年9月から茨城県土浦市で正式に郵政省の許可を得て、初めて救急無線を用いた心電図伝送システムの運用を開始した。
最盛期には北海道から沖縄まで、全国に32カ所の解析センターと、2,000台を超える端末装置かが稼働、年間150万件にのぼる膨大な量の心電図を解析処理していた。これにより得られたデータ・経験による解析ソフトの改良は、臨床の場での心電図の解読力の向上に大いに貢献した。
心電計 ECG-8210は液晶モニタを搭載し、記録前に心電図を確認できる画期的な心電計だった。
心電図を記録する前に確認できる! この発想は医療現場に密着した製品開発をしてきたからの発想で、常にエコに配慮した製品開発は現在でも続いている。
自動血球計数器 MEK-4150 "セルタック"はそれまで人用の計数器を代用していたが動物専用として開発しペットから家畜まで多くの獣医からの期待に応えるものだった。
大学、研究機関との連携が強かった日本光電は獣医の方々からの要望も直接入ってきており、かねてより熱望されていた現場で簡単に血球計数ができる"動物専用"機器の登場はペットの動物病院のみならず、食肉用の牛や豚を管理している保健所でも活躍し、食品衛生へも活躍の場を広げていった。
取締役会において荻野義夫が代表取締役会長に、荻野和郎が代表取締役社長に選任された。2年後に創立40周年を迎えるにあたり、「第二の創業期」は、若い力と新鮮な視点で切り開いてもらいたいと創業者荻野義夫の思いを込めての、新社長の誕生であった。
ライフスコープ OEC-6401は電波法改正に伴い新電波法に対応した日本初の医用テレメータだった。
【電波は有限の資源である】との観点から、アナログ方式での限界の見えてきた当時、現在の地デジ化へとつながる電波法改正にともなって、医療用の電波帯域が変更された、その帯域ではアナログ方式の医用テレメータでは多くのチャネルを必要とする病院等の医療現場のニーズには応えることが困難ということで、後にデジタル方式を採用せざるをえなくなった。無線技術に長けていた日本光電はアナログ方式ではあるが日本で最初に新電波法に対応した医用テレメータ OEC-6401の開発・販売に成功し、後にデジタル化するOEC-6501の先駆けとなった。
荻野義夫の受賞の栄誉は、ME(Medical Electronics)という科学技術の新しい分野の先駆者として永年にわたり、医学、医療の向上に貢献したこと、また諸官公庁の審議会や委員会、日本ME学会、日本電子機械工業会などを通じて医学界、産業界の振興に貢献したことが評価されたものである。
1989年秋の褒章で、会長の荻野義夫が勲四等旭日小綬章を受章し、11月9日に受賞者に対する伝達式と天皇陛下へ拝謁が行われた。勲四等旭日小綬章の趣旨は、「公衆の利益を興し、他の模範となるような優れた業績が認められる者に対し授与する」となっている。
脳波計 EEG-3100は世界で初めて光磁気ディスクを搭載し、脳波のファイリングを可能にした脳波計だった。
世界シェアNO.1の日本光電の脳波計への期待は大きく【紙記録】が基本であった脳波検査をモニタでのモニタリング、光磁気ディスク(当時の大容量記録装置としては光磁気ディスクが最もポピュラーだった)への波形ファイリングと最小限の紙記録を可能にした、エコに配慮した待望の製品の誕生だった。
「上海光電」の資本金は190万米ドル(約2億7,000万円)で、当社が51%、合併の相手である中国最大のME機器メーカ・上海医用電子儀器廠が40%、対中専門商社の太陽交易が9%を出資した。
日本光電初の海外生産拠点となる日中合併会社「上海光電医用電子儀器有限公司」(上海光電)の設立調印式が上海市において行われた。1ch小型心電計を初年(1990年)度4,000台生産し、90%は中国国内市場へ、残り10%は輸出に振り向ける計画であった。初年度から黒字となる好調なスタートとなり、翌年度からは電極、モニタなど生産品目の拡大を行った。
1968年に初のPR映画を作成したが、40周年事業の一環としてさらに広く日本光電を知ってもらうために、企業理念や製品紹介をするビデオをリニューアル制作した。
NASAのスペースシャトルを利用した日本の本格的な宇宙実験「第1次材料実験(ふわっと’92)」で当社の生体情報モニタリングシステムがシャトル「エンデバー」に搭載され、日本の搭乗科学技術者第1号の毛利衛氏とともに宇宙に飛び立った。
宇宙での生体情報のモニタリングは医療の発展にも貢献することから、日本光電の技術力を評価しNASDAとともにこのプロジェクトに採用された。この経験は日本光電のその後のマンマシンインターフェースの改良に大きな一歩となり、ME機器と人の接点という基本にして一番大事な技術の飛躍につながった。
医学、技術の急速な進歩とともに、ME機器に求められる安全性・有効性の確保に対する国際的な関心の増大を背景として、1993年4月、品質強化本部を中軸に2つの部会、8つのプロジェクトチーム、11のワーキンググループの体制で認証取得への取り組みを開始した。
ISO9001を満足する体制とは、1983年に名誉会長荻野義夫が提唱したIQCの基本方針「日本光電の製品を買ってよかったとお客様がのちのちまで満足していただける状態を保つこと」の実践であった。
1995年1月20日、当社は(財)日本品質保証機構(JQA)から、認証取得企業として正式に認められることとなった。
1996年、日米間で遠隔医療実験が成功。九州大学医学部、産業医科大学、アメリカ・オハイオ州のクリ-プランドクリニックで、世界初の太平洋を越えた遠隔医療実験が成功をおさめた。
デジタル時代の幕開けとともに日本光電でも国際的なプロジェクトへの参画が加速してきた時である。また、高齢化社会と遠隔医療への課題のソリューションを当時から積極的に行ってきた証である。
日本ME学会第37回総会にて、ポケットCO_{2}モニタ(ポケットサイズの呼気CO_{2}濃度測定装置)が科学新聞賞・新技術開発賞を受賞した。同賞の受賞は1986年呼吸モニタ、1991年の電磁血流計、1993年のビデオマクロスコープ、さらに前年の「虹彩紋理追跡法による眼振三成分解析」に続き、2年連続5回目の受賞となった。
ポケットCO_{2}モニタは、世界最小・最軽量、優れた耐衝撃・防水性を有する救急向けの呼気CO_{2}モニタ。呼気CO_{2}濃度は、気道確保の確認で最も有効なパラメータだが、心肺蘇生中に測定できる唯一の生体パラメータでもあり、最近は米国を中心にCO_{2}濃度を循環の指標と見なして、心マッサージの有効性や心拍再開の指標とする試みがなされ、心肺蘇生患者の救命率向上に役立つことが期待される。
医療機器の製造メーカとしてインダストリアルデザインは、日本光電のイメージをお客様に覚えていただく大きな要素であった。その分野でも認識された受賞であり、その後の製品および会社全体のデザインに大きな弾みをつける受賞であった。
現在では、どこのモニタにも装備されているアラームインジケータや集中操作部などを世界で初めて装備し、各種ユニットやコネクタ、タッチパネルをはじめとする全体の操作性や配色などに至るまで、機器をトータルに捉えた先進的なデザインで、それまでとは異なる新しいモニタのデザインを確立し、その後の世界のモニタに大きな影響を与えた。BSS-9800が受賞したグッドデザイン賞インタラクションデザイン賞は、これまで他分野での受賞はあったものの医療機器での受賞は初めてで、それだけに業界に対する影響力も大きく、雑誌PowerMacに紹介記事が掲載され、Macユーザの多いドクターの間でも話題になるほどであった。
日本ME学会第38回総会にて「パルス式DDGアナライザ」が科学新聞賞・新技術開発賞を受賞。新しいパラメータの出現と大変注目された。
今回開発した新技術は、血液中に投与したICG(色素)濃度を、パルスオキシメータの原理を使って鼻翼や指先に取り付けたプローブで無侵襲測定するというもの。これを応用したDDGアナライザは、低侵襲で簡単に心拍出量、循環血液量、ICG血漿消失率(肝臓機能)を測定することができる、日本光電オリジナル製品である。今まで簡単にできなかったベッドサイドでの循環血液量測定を可能にしたため、麻酔、集中治療など体液管理を行っている分野では、新しいパラメータの出現と大変注目されていた。肺動脈カテーテルを使用せずに簡単に心拍出量が測定できることも好評であった。
2001年4月、日本で初めての完全ペーパーレスをめざした昭和大学横浜市北部病院の電子カルテには、心電図などの波形データ、数値データなどモニタ接続が唯一可能な当社ならではのデータを載せることに成功した。
1995年10月、国の景気浮揚対策を背景に発足した看護支援プロジェクトは、病院情報システム他と相互連携する次世代の院内ネットワークシステムを見据え、重症病棟用看護支援システム NSS-1100と一般病棟用看護支援システム NSS-1200が先陣として送り出された。2000年4月には手術部システム CAN-1500を発表、患者さんの安全性と効率の追求をコンセプトに、手術室を中心とした機器・システムの連携によるトータルサポートを提案するものであった。
医療分野における情報化は業務の効率化ばかりではなく、診療情報を共有することにより、医療の質も安全性も向上すると考えられる。
小児医療への配慮からサンリオ社のライセンス提供を受け、ハローキティをプリントしたビトロードVを発売開始した。
50周年記念キャンペーンの一環として、子供から大人まで幅広い人気のサンリオ社キャラクター「ハローキティベイビーズ」をデザインしたディスポ電極を発売。ディスポ電極は生体情報モニタへ心電図を表示させるために患者さんの体に貼り付けるもので、キャラクターを採用することにより、「やさしさ」に配慮し、小児の患者さんをはじめ看護師さんからも注目の的となった。
日本麻酔学会社会賞受賞。当社の青柳卓雄は1972年末、色素希釈法による心拍出量計に開発中にパルスオキシメータの原理を世界で初めて着想し、国内特許を取得している。
この受賞は「パルスオキシメータを開発し、その後もその性能改善に励み、原理を他の医療測定に応用する理論研究を継続、医療技術の発展に貢献した」ことによるものである。パルスオキシメータは測定対象が患者さんの心臓や呼吸機能など、直ちに命に関わる重要なものであることと、取り扱いがきわめて簡単なことから、あらゆる医用現場で使われている。患者さんの急変をいち早く察知することができる麻酔中の患者用モニタにおいては、ひとつの革命とも称され、世界各国の麻酔基準に採り入れられ、患者さんの安全に大きく寄与している。
創業者荻野義夫、天寿をまっとうし永眠する。
日本光電創立以来、病魔と戦う人達のため、社員や家族のため、常にグループの先頭を走り続けてきた荻野義夫が、平成17年10月30日夜8時45分、自宅で家族に見守られる中、静かに旅立った。享年88才。
2004年7月に一般市民による使用が認められたAED。2005年の愛・地球博や関西国際空港での救命成功事例などがメディアで大きく取り上げられたこともあり、AEDの認知度は急速に高まった。2006年3月、日本の政治中枢である国会議事堂へAEDが合計18台設置された。両議院の警務部の方約500名および参議院の議員・秘書・事務官約100名に講習会を実施、質問が多く飛び交う充実した講習会になった。同月、東日本旅客鉄道(JR東日本)では、前年試行導入された御茶ノ水駅に続き、山手線内6駅にAEDが設置された。また、都庁前駅で救命成功事例が出た都営地下鉄では、同年6月に都営地下鉄全101駅にAEDが設置された。
(財)日本陸上競技連盟と東京都の主催による東京マラソン2007が東京都心で開催された。約30,000人の市民ランナーが、新宿の東京都庁前からゴールの東京ビックサイトまでを走った。日本光電は大会の協力会社としてAED44台をコース内に配備。当日は大会メディカルチームと協力しAEDサポート要員として社員20名がコース上で待機。マラソンランナーの安全をサポートした。大会当日は、あいにくの大雨と寒さ、そして疲労により救護所で手当を受けたり、救急車で運ばれたりする方もいた。スタートから約4時間後の38キロ地点と、約6時間後の41キロ付近では、2名のランナーが心肺停止で倒れたが、沿道の方とメディカルスタッフ、そして後続ランナーの迅速な協力体制により、ただちに心肺蘇生処置およびAEDが使用され、病院へ搬送。無事に生命をとりとめた。
東京マラソン2008をAEDでサポート、大会当日に日本光電にとって初めての全国ネットテレビCMを放送した。東京マラソン2007でAEDは、心肺停止状態となった2人の生命を救ったが、東京マラソン2008では、2007より15台多い59台を用意し、幸い出番はなかった。テレビCMはフジテレビ系列全国ネットで放送される番組内で放映された。
多チャンネルテレメータシステム WEB-1000/WEB-7000は、コードレステレメータ電極「テレメータピッカ」を利用することで、無拘束な状態での筋電図測定を簡単に行うことができるテレメータシステム。コードレス・ペーストレス・ノイズレスにより、安定した筋電図をリアルタイムでモニタリング、データ保存、解析が可能になった。また、動画との同期も可能となった(オプション)。
成長著しい中国市場での事業拡大に向けて、中国全土をカバーする販売子会社「尼虹光電貿易(上海)有限公司」(日本光電100%出資)を設立。
これまで、中国市場での事業活動は商社、現地駐在員事務所、および現地生産子会社である「上海光電医用電子儀器有限公司」を通じて展開してきたが、販売、マーケティング、アフターサービス、物流機能を新会社に集約し、現地生産子会社は生産に特化することとした。
競争力のある製品と質の高いサービスをスピーディーに提供できる体制を構築し、中国市場における事業の拡大と日本光電ブランドの確立を図るものである。
日本光電アメリカ(株)、日本光電ヨーロッパ(有)に続く海外主要販売拠点の確立となる。
さらなる飛躍へ、鈴木新社長誕生。荻野和郎は代表取締役会長に。
日本光電は今後期待されるグローバル化や新技術、新製品の開発、サービス、ソリューション事業充実のため、役員の刷新を図り新社長誕生となった。
荻野会長の受賞の栄誉は、医用電子機器専業メーカの社長として、永年にわたり事業強化を通じて社業を発展させた産業振興の功績が評価されたもので、当社が医療機器の開発を通じて世の中に貢献してきたことが認められたことでもある。
2008年秋の褒章で、会長の荻野和郎が藍綬褒章を受章し、11月18日に、受章者に対する伝達式と天皇陛下への拝謁が行われた。藍綬褒章の趣旨は、「公衆の利益を興し、他の模範となるような優れた業績が認められる者に対し授与する」となっている。
医機連は、医療機器関連20団体、4,900社、賛助会員130社から構成され、日本の医療機器産業を代表する連合会である。日本を代表する医療機器メーカの一つとして、社会の期待に応えていくこととなる。
政府は医療機器産業を日本の経済を牽引する重要産業の一つと位置付け、2007年4月に「革新的医薬品・医療機器創出のための五ヵ年戦略」を策定した。2008年6月に閣議決定された「経済財政改革の基本方針2008」では、日本の成長力の強化を図る一環として、国際競争力のある成長分野を創出し、医薬品・医療機器産業の革新を図ることとなった。
産官学、国を挙げて日本の医療機器産業の発展を図る環境の中での、就任であった。
富岡第2工場は群馬県からの要請によりドクターヘリのランデブーポイント(場外離着陸場)に指定された。
群馬県では2009年前橋赤十字病院が基地病院となりドクターヘリの運行が開始された。群馬県西毛地区で二次救急の拠点病院である公立富岡総合病院への患者搬送のために、隣接する富岡第2工場の敷地がドクターヘリの離着陸するランデブーポイントに指定された。県内の消防本部からの要請が入ると、救急専門医、看護師を載せて5分以内に出動し、時速約200kmで運航し、群馬県内全域を概ね20分以内でカバーする。このように日本光電は地域の救急医療にも貢献してきたのである。
「AED-2100とその周辺プロダクツ」が2009年度グッドデザイン賞(Gマーク)を受賞した。グッドデザイン賞は、財団法人日本産業デザイン振興会が主催する総合的なデザイン評価・推奨制度で、「優れたデザイン」に毎年贈られている。
AED-2100は「医用機器デザインで人類の幸福に貢献する」という当社デザイン理念のもと、高機能をシンプルにまとめ、誤使用の要素を徹底的に排除することを目指してデザインした。また、一刻を争う緊急時にも、誰もが迷うことなく操作できるよう、「簡単で使いやすい」ことを目指し、当社の技術を結集した。
当社は、AED-2100の他にも、AEDの使い方を練習するトレーニングユニットや、様々な設置場所に合わせた収納ケース、イメージカラー「オレンジ」への統一など、お客様から求められる様々なご要望にお応えすべく、周辺プロダクツをデザイン、開発している。
当社では、これらAED-2100とその周辺プロダクツをお客様へご提供するだけでなく、アフターケア、講習会、啓発活動に取り組み、救命率の向上を目指している。
全米市場における生体情報モニタの顧客満足度市場調査で5年連続最も高い評価を獲得した。
北米の調査会社Medical Strategic Planning, Inc.(以下MSP)は2009年、全米市場における生体情報モニタ大手6社について、製品の信頼性やサービス面における顧客満足度を市場調査し、日本光電アメリカは、Best Overall Contending Venderとして最も高い評価を獲得した。本調査は今回で5年連続行われているが、日本光電アメリカは最も高い評価を5年間継続して得たことで、今回、特別にMSPからSignificant Achievement Awardを受賞した。
次世代育成支援企業認定マーク(愛称:くるみん)は、仕事と子育ての両立支援についての一般事業主行動計画を策定・実施し、活動実績が認められた場合に取得できるもの。全ての従業員にとって「働きがいがあり、働きやすい」職場環境を実現するため、仕事と育児の両立支援に関する制度等の充実、制度の啓発・周知活動や業務効率化の推進など、ワーク・ライフ・バランス活動を推進するなどの取り組みが評価され、東京労働局より子育てサポート企業として同マークを得した。
今後も当社では、従業員ひとり一人がやりがいを持っていきいきと働くことができる環境の実現に向けて、ワーク・ライフ・バランス活動に積極的に取り組んでいく。
日本光電は、2021年8月7日に創立70周年を迎えました。私たちのこれまでのあゆみを動画でご覧ください。